そして、日曜日。俺は奈々子と一緒に動物園に行った。駅で待ち合わせて、そこから二人で電車に乗った。その日は、青空の綺麗な快晴だった。
奈々子は小学生のくせになかなか洒落た服装でやってきた。さすがに化粧はしていなかったが、クリーム色のセーターに焦茶と赤のシマ模様のスカート、肩まであった髪の毛を少し大きめのリボンで綺麗にアップにしていた。肩からかけているバッグもその雰囲気に似合った小さめの物だった。
「へへっ、似合ってるでしょ?」
奈々子は子供らしい含み笑いをしながら、ポーズをとってみせる。何だか、お菓子か何かのCMに出るみたいだ。俺はそんな奈々子の頭を優しく撫でてやる。奈々子は喉をゴロゴロと鳴らす猫のように、気持ち良さそうに目を閉じる。
「うん、なかなかだ。十年経ったら結婚してやる」
「‥‥長いね」
「それでも、あと七年しないと、お前は結婚出来ないんだぞ」
「‥‥だね」
目を開ける奈々子は、ミルクが無くてあたふたしてる猫に似ていた。
その動物園は中学生の頃、母親と父親に連れられて行ったきり、一度も行っていない動物園だったが、外装も内装もほとんど変わっていなかった。全体的に塗装が新しくなってはいたが、建物の形などは変わっていなかった。ただ、動物は新しいのが増えているらしい。入り口付近に大きな看板があり、ペンギンとダチョウがやってきた、と書かれてある。昔はそんな動物はいなかった。
日曜日という事もあってか、園内は家族連れで賑わっていた。はっきり言ってしまえば、家族連れがほとんどだった。俺は少し場違いな気がしてしまうが、奈々子の方は気分上々のようで、俺の腕にしがみついている。本人としては腕を組んでいるつもりなのだろうが、何分身長差がある為、奈々子が俺の腕にしがみついているように見えてしまう。そんな姿も健気で、いかにもこの子らしい。
「最近ね、ペンギンとダチョウが来たんだって。見に行かない?」
当ての無く園内を歩いている時、奈々子がそう言う。
「そうだな。見てみようか」
俺は近くにある看板を見て答える。ペンギンの檻はここから歩いてすぐの所にあるらしい。幸い、他の家族連れは自分達の子供の面倒で精一杯らしく、誰も俺と奈々子の事なんか気にしていない。まあ、実際はこんなものなのだろう。気苦労は所詮、気苦労なのだ。
ペンギンのコーナーにはたくさんの人がいた。“檻”という程ではなく、囲い、という感じの場所で、野外にあった。ペンギンは十匹くらいいて、北極かどこかを似せて作られた囲いの中で、ヒョコヒョコと歩いている。
「わぁ、可愛い! そう思わない?」
手摺りから身を乗り出すようにして、奈々子は声をあげる。その隣で、俺も思わず声を出してしまう。
「ああっ、本物を見るのは俺も初めてだ」
ペンギンはお腹を除いて、あとは全部黒い羽毛で覆われている為、目がどこにあるのかよく分からない。それがまた可愛らしく見える。二本足で歩く仕草も、何とも愛らしい。俺も奈々子の隣で大人げなくその光景を見入っていた。
その時だった。
「あれ? 原口君?」
後ろでそんな声がした。俺はその瞬間、背筋につららが刺さったような気がした。そして、カクカクとロボットのように後ろを振り向く。そこには、知っている顔があった。
大学時代の友人、望月香苗(もちづき かなえ)だった。その時、俺は急に昔の事を思い出した。香苗は動物が大好きで、将来は動物の飼育委員になるのが夢だと言っていた。そして、その夢の通り、見事に飼育委員になったと卒業間際に言っていたが、まさか、この動物園の飼育委員になっていたとは、俺は夢にも思っていなかった。
「こんな所で何してるの? ひょっとしてデート?」
全身クリーム色の作業着の香苗は、にたりと笑った。俺はそれに対して何と答えていいのか分からなかった。頭の中がパニックになっていた。こんな事は無い、という前提の下にここに来ていたから、何の言い訳も用意していなかった。
「ま‥‥まあ、そんなところだよ。は‥はははっ」
「?」
しどろもどろに言う俺に、香苗は頭に?マークがついたような顔をする。場の空気が悪すぎる。周りは家族連れがはしゃいでいるのに、そこだけ会社の面接風景のように固まっていた。そして、更に間の悪い事に、奈々子が視線をペンギンから俺に移していた。
「‥‥まこっちゃん、誰? この女の人」
奈々子は明らかに疑惑の目を向けている。そして、香苗も疑惑の目を向けている。俺はその四つの視線によって、完全に固まってしまった。
「まこっちゃん?」
香苗がその言葉に敏感に反応する。奈々子は子供とは思えない鋭い視線で、香苗を睨みつける。その視線と頭に付いてるリボンが全然似合ってなかった。
「そうよ、まこっちゃんよ。あんた、誰なの?」
まるで仁王でも宿ったかのように、奈々子は香苗に強烈な視線を送り付ける。しかし、香苗の方は意外にもあっけらかんとした表情だ。何かを考えているようにも見える。
「この人はね、私と結婚するつもりなの」
「☆!♪〜」
俺は裏返った声で言ってしまった(言ってはいない)。一瞬、隣の家族が変な目で俺を見る。俺はあははは、と愛想笑いを浮かべて、その目をかわす。香苗は何も言わず、その言葉を聞いても、何の反応も示さなかった。示さなかった、と言うよりは、示せなかったと言った方が正しい表情だった。
奈々子は俺の腕にしがみつき、離すまいと気張った顔をしている。俺は一言、こう思った。
もう駄目だ、と。
「そう、良かったわね。大丈夫よ、そんな目で見ないで。私は別にこの人とは何でもなかったんだから」
しかし、香苗の言った言葉はあまりにも予想外の言葉だった。睨みを効かせる奈々子に向かって、にこやかに笑う。その笑顔に奈々子もビックリしたのか、きょとんとした顔になってしまう。
「原口君、良かったわねぇ、彼女が出来て。応援してるわよ」
香苗はウインクをしてみせる。奈々子も驚いていたが、俺の方がもっと驚いていた。何だ、この反応は。全然、俺の考えていた事と違う。ロリコンだとか、変態だとか、そういう事を言われると思っていた。しかし、香苗はそんな事は一言も言わず、俺だけではなく奈々子にまで笑顔を向けている。これはどういう事だ? 香苗は実はショタコンだったのか? いやいや、そんな話は聞いた事が無い。第一、香苗は大学時代に同学年の男と付き合っていたはずだ。
「も‥‥望月?」
「はいはい、私は邪魔ね。すぐ行くから。これから、あのペンギン達に餌をあげなくちゃいけないのよ。失礼しますわ、お二人さん」
そう言うと、香苗は奈々子の頭をグリグリとちょっと乱暴に撫でた。それで、奈々子の方は完全に気分が直ったらしく、餌あげるの? と喜んでいる。俺も事情はよく分からなかったが、とりあえずこの場だけは切り抜けられそうなので、ホッと安堵のため息を吐いた。
その時、香苗がスッと俺に顔を近付けた。
「私も同じ経験があるのよ、子供に懐かれちゃうって経験。まあ、ほどほどにしときなさいよ。ホントに出会ったのが私でラッキーだったわね。他の子だったら、あんた、間違いなくロリコン扱いよ」
そう小さな声で言うと、香苗は素早い足取りでその場から立ち去っていった。俺はポカンとした顔で香苗の後ろ姿を見ていた。
「何? 何話してたの?」
そんな俺の服の袖を奈々子が引っ張る。俺は我に返り、心配そうな顔の奈々子に晴れやかな笑顔を見せた。
「この動物園の中に、美味しいレストランがあるんだってさ」
それから俺と奈々子は、香苗がペンギンに餌があげる様子を見てから、昼食の為に園内のレストランへ行った。そのレストランはイスとテーブルが野外に設けられていた。俺と奈々子は向かい合う感じで座った。
俺はサンドイッチを頼み、奈々子はミートソーススパゲッティを注文した。さっきは口からデマカセだったが、本当にそのレストランでの食事は美味しかった。さっきの修羅場を切り抜けた後だったので、それが原因で美味しく感じるのかもしれない。
「‥‥」
香苗は頭のいい女ではなかった。でも、機転が効いて、すぐにその場の空気を飲む才能にかけては才女だった。香苗は俺と奈々子の関係を一瞬にして見抜いたのだ。そして、すぐに奈々子の合わせて、言葉を選んでくれた。しかも、俺の事もちゃんと理解してくれていた。
俺は香苗に心の底から感謝していた。もし、ここに香苗がいたら、俺は絶対に彼女にたらふくご飯をおごっていただろう。
「‥‥何だか、嬉しそうな顔してるよ?」
スパゲッティを口いっぱいにほおばりながら、奈々子が聞く。口の中にものが入っていたので、聞き取りにくい声だった。
「ご飯が美味しいから、こんな顔なんだよ」
俺はニコッという音がしそうな程の笑顔で言う。奈々子はその笑顔の真意までは理解してなかったのようだが、俺の笑顔が偽りではない事だけは分かってくれたようで、とっても美味しいね、とやっぱり聞き取りにくい声で返した。
香苗もこんな経験がある、と言っていた。その言葉だけで、俺はとても救われた気分になれた。奈々子の事は好きだ。子供とかそういう事を抜きにしても、目の前の笑顔は見ていていい気持ちになる。さっきまでの俺はその笑顔をなかなか真っ正面から見られなかった。周りの目が気になったし、何よりも俺自身、その行為自体にひどい後ろめたさがあった。でも、こういう経験は俺だけではない、と言われた事で、その後ろめたさが綺麗さっぱり無くなった。周りの目も気にならなくなった。奈々子の可愛らしい笑顔も素直に見れる。
「んっ? 何?」
大きな瞳を向ける奈々子。
「いや、何でもない」
「うわっ、大人の言い方だ」
「お前より大人だからな」
「たまたま早く生まれただけでしょ?」
奈々子は水を飲み干した。
動物園を出たのが、午後の五時だった。日も暮れかけている。電車に乗って、そこから歩いて家に着く頃は六時くらいになっているだろう。
「家は駅から近いの?」
電車に揺られながら、俺は奈々子の顔を覗き込む。
「歩いて二十分くらい。送っていってほしいなぁ」
「いいよ、それくらい」
「本当に? 嬉しいなぁ」
奈々子は俺の腰に両手を回す。だが彼女の腕の長さでは、腰全部には回らなかった。
奈々子の家は一戸建てで、綺麗な家だった。歩いて二十分と言っていたが、帰り際奈々子は眠くなったらしく、歩く速さも遅くなってしまい、実際に着いたのは駅から三十分経ってからだった。
家に着き、奈々子はねむけまなこでドアベルを鳴らす。しばらくして、奈々子の母親らしき人が出てきた。三十の半ばくらいの人で、奈々子をそのまま大きくしたような感じの、はっきり言って美人だった。
「あの‥‥奈々子ちゃんのお母さんですか?」
「はい、そうです。原口さん‥‥ですよね? 奈々子から話は聞いてますよ」
奈々子の母親は落ち着いた感じで笑い、俺の腕の中で半分まぶたを閉じている奈々子を抱いた。
「今日は朝から付き合っていただいてありがとうございます。お茶でも出しますから、あがってください」
「あ‥‥どうも。それじゃあ、お言葉に甘えて」
「どうぞ、どうぞ」
それから奈々子は完全に眠ってしまい、居間のソファで可愛い寝息を立てて眠ってしまった。その居間で俺は奈々子の母親から出された紅茶を飲んだ。
室内は綺麗なもので、隅から隅まで掃除が行き届いている、という感じだ。居間は緑色の絨毯が敷いてあり、大きなテレビの隣には濃い緑色の観葉植物が立っていた。
「今日は本当にありがとうございます。子供相手に疲れたでしょう? 奈々子も、朝から張り切ってましたから」
奈々子の母親は長い髪の毛を後ろで結わいでいて、物腰もとても落ち着いていた。テーブルを挟んで向かい合う俺は、何だか気恥ずかしくなってしまい、何度も頭を下げながら紅茶を飲んだ。紅茶は蜂蜜が入っているらしく、ほのかに甘くてとても美味しかった。
「いや。僕も久々に動物園とかに行きましたから。とても楽しかったです」
「でも、子供よ。奈々子は」
「‥‥奈々子ちゃんは楽しんでたみたいですから。楽しんでる人の隣にいると、悪い気分にはなりませんよ」
「本当にありがとうございます」
コロコロと笑う奈々子の母親。笑い方もよく似ていた。
奈々子の母親も紅茶を飲む。いつ見ても笑顔のように思えたが、時折悲しい顔を見せた。それは、初めて奈々子と出会った時、奈々子が垣間見せていた表情と似ていた。
ふと、奈々子の母親は紅茶をテーブル置いて、俺の方を見た。さっきまでの目とは少し違う。何だか、あさっての方を見つめているかのような、そんなボーッとした視線だった。俺はその視線が気になり、その視線を見返す。すると、奈々子の母親は俺から視線を外し、自虐的に微笑んだ。
「最近の事なんですが、奈々子の父親、つまり私の夫が単身赴任で一年間、地方に行く事になったんです」
「えっ?」
いきなり言われて、俺は紅茶を持つ手が止まる。奈々子の母親は俺と視線を合わせようとせず、テーブルをじっと見つめている。
「この家は最近買ったばかりで、私と奈々子はここを離れる事ができなかったんです。本当に突然の事で、私も奈々子もどうしていいか分からなくて。私の方はしばらくして立ち直れたんですが、奈々子の方はずっと俯いたままで‥‥」
「‥‥」
「そんなある日、凄く嬉しそうな顔して学校から帰ってきたんです。どうしたのって聞いたら、好きな人が出来たって。それって多分、原口さんの事だと思うんです」
「‥‥」
「奈々子は何も言ってないみたいですけど、原口さん、あなた、私の夫によく似てるんです。正確に言うと夫の若い頃にですけど。だから、奈々子はあなたと一緒にいたいんだ、と思うんです」
初めて、奈々子と会った時を思い出す。
ひとりぼっちだって、思った事ある?
奈々子はそう言っていた。その時の俺は大人びた事を言ってるな、と思っただけだった。でも、今の話を聞くと、その言葉の意味がよく理解できた。あの時、奈々子はひとりぼっちだったのだ。
「迷惑な話だと思うんですけど、できれば、これからも奈々子と会っていただけませんか? 夫が戻ってくるまで、いえ、奈々子の心の傷が治るまででいいんです。‥‥駄目でしょうか?」
切実な表情で、奈々子の母親は言う。今にも泣きだしそうな顔だった。この人は自分の娘をとても大切に思ってるんだな、と俺は思った。自分の娘の為に泣ける母親は、とっても偉大で、いい人だ。
そんな母親の後ろで、奈々子はまぶたを閉じて、寝息を立てている。穏やかな寝顔だ。
俺はほとんど間をおかずに答えた。
「勿論、いいですよ。その話を聞く前から、奈々子ちゃんとはこれからも仲良くしていきたいって思ってたんですから」
それを聞いて、奈々子の母親の表情がフワッと明るくなる。
「ありがとうございます。原口さん、夜ご飯まだですよね? 良かったら、どうですか? せめてものお礼です」
「お礼のつもりは無いですけど、お腹空いてるんでもらいます。奈々子ちゃん、途中からほとんど寝てたんで、運ぶのに苦労したんですよ」
そう言うと、奈々子の母親はまた笑い、立ち上がった。
「でも、奈々子、本当に原口さんの事が好きみたいなんですよ。まだまだ子供ですけど」
「微笑ましいと思いますよ、そういうのって。僕も子供の頃は年上の人に憧れたものですから」
「私もです。今の主人だって、八歳も年上なんですよ」
さっきまでの暗いイメージなどどこにも無い奈々子の母親は、そこまで言うと台所の方に消えていった。
一人になった俺は、クウクウと眠っている奈々子の近くに腰を下ろした。可愛い寝顔だ。とても、愛らしい。とても、辛い事実を抱えていたなんて分からない程、いい顔だ。こんなに幼い時に、父親と一年間も離れ離れになるのは、きっととても悲しい事だったに違いない。なのに、この子はそんな表情、ほとんど見せなかった。とても、強い子だ。
「‥‥」
ふと外を見てみると、さっきまではオレンジ色だった空が、今は暗く紺色になっている。台所の方からは、トントントンという軽快な音が聞こえている。鼻歌も、微かにだが聞こえている。
俺は奈々子の頬をゆっくりと撫でる。微笑ましい愛を信じてやまない顔が、くすぐったそうに揺れた。俺はそんな顔を眺めながら、食事がやってくるのを待った。
終わり
あとがき
色々な美少女ゲームなんかをやっていると、こういう何でもない話が書きたくなるんですよね。これと言って思い入れのある作品ではないですし、確か何も迷わず最後まで書けた記憶があります。どこかの大賞に送るわけでもなく、ずっとお蔵入りしていた作品だったので、こうして載せてみました。
奈々子ちゃんは書いてて楽しかったですな。続編とか、気が向いたら書いてみようかと思います。